苦しいだけの旅
なんのためにと意味を問うところから苦しみは始まる
全てに意味なんてないのだから答えなんて見つかるわけがない
それでも人は悲しい生き物だから自分自身の生涯に意味を求めずにはいられない
何者かである必要も何かを成し遂げる必要も何かを残す必要もない
世界はあなたにそれを期待していない
ただ存在するという無味乾燥な事実だけが転がっていて
ただ生きてさえいればいい
真偽
何が真実で何が嘘かに頭を抱えるという無駄なことをしてきた
多分真実なんてものはない全部嘘でできている
疑われない嘘を真実と呼んでいるんだ
みんなで信じる嘘を常識と呼んでいるんだ
どの嘘を信じて生きていくか
自分の見た夢を追いかけて死ぬまで生きればよくないか?
貧乏人のポエム
詳しくは分からないけれど、どうやら資本家が爆速で資本を増やし続け労働者階級を置き去りにしていく未来はほぼ確定しているらしい。
一般人はお金のフィールドで戦ってはいけないということだ。
なのでお金の地位をなんとかして貶めたいと思った。
お前が何兆持っててもタダの金じゃんって言えるようなお金への依存度の低い暮らしをしたい。
人間が生み出した数字や概念に一生縛られて生きていくのはなんだか面白くない。
人間のための仕組みか仕組みのための人間か分からないじゃないか。
【考察】なぜ私は仕事をサボってしまうのか
タイトルにあるようにサボりの理由を考察するにあたってそれっぽい情報を仕入れたので書いてみる。
サボりがインスタントに自分の利益を最大化する行為になってしまっているから利己的に自分はサボっているというのが結論なのだけれど、何故そこに至ったのかを説明しよう。
これを説明するには一般的な給料の決め方についてお話ししておく必要がある。
会社員をはじめとする労働者に支払われる給料というのはその者の社会に対する貢献の見返りではなく、労働力を再生産するのに必要な経費である。
世のため人にために貢献したらしただけリターンとして得られるお給料も増えるから頑張ろう!みたいな事をいってる奴は嘘つきか調教済みの豚なのである。
労働力を再生産するのに必要な経費とは社員が社員として生きていくのに必要な経費。一般的な生活水準と照らし合わせて大体これくらいいるだろうという見積もりの元決められるものである。
役職がつくと給料が上がるのはそれだけ精神的負担が増え、回復のための消費行動(お酒を買ったり贅沢したり)が必要になったり、部下におごったり、付き合いが増えたりと必要経費が増えるからである。
またお医者さんなど特殊スキルを有する職業の基本給が高めになるのはそのスキルを持つ人間を育てる(作る)のに時間、金、労力といったコストが余計にかかるからだという。
人間も機械と同じなのである。何かを作るマシーンの価格が1億円で10年で壊れるとしたら毎年1000万円ずつ貯金していき、買い換えの資金とするのと同じようなものなのだ。
労働者の貢献によって生み出された利益が100万円分あったとしてもその労働力を再生産するのに必要な一般的な見積もりが20万円なら給料はそんなもんだし、生み出された利益がすごく頑張って200万円分でもやっぱり20万円くらいの給料なのである。(多少のボーナスとかはあるかも知れないが、還元率はあまりにもしょっぱいのである)
そして一般的な人間の基準で給料が決められているのなら普通に暮らし、消費活動を行えば年収がいくらであろうと大体必要な分が給料として払われているので予想通り良い感じに使ってしまってそこまで余裕がある財政状況にはならないのである。
サラリーマンをしながら貯金をして財政的な余裕を獲得するには
・そもそも一般的な水準の生活にこだわらない
衣食住でこだわりがないものを安く済ませる。ぼろくて良いから家賃安い家に住む。おしゃれに興味ないから安い服を買う等など。
・回復行動に必要な経費を下げる
得意な職、苦にならない仕事についてそもそも人より疲れない
適度にサボって体力温存
等が考えられる訳だけれど自分はサボって温存を選択したわけである。
会社の利益と自分の利益が一致しなくなった結果、気力を温存して家に帰ってからの活動に備えた方がええやんってなってしまっているのが現状なのである。
うちはの石碑と知識と学び
NARUTOに出てくるこの葉隠れの里の名門うちは一族の集会場には地下の隠し部屋があり、そこにそびえ立つ石碑にはある秘密が記されている。
この石碑の内容を解読するにはうちは一族のみが持つ写輪眼という特殊な瞳が必要だ。
写輪眼は瞳を持つ者の成長と共に能力が拡張していき、それと共に石碑から読み取れる情報量も増していくのである。
作中では成長したうちはサスケ(主人公ナルトのライバルでありもう1人の主人公)が石碑から得た情報を元にある決断をすることになるのだが、ここではそれについては触れないでおく。
石碑を見る者の成長段階によって得られる情報量が変化するというのは現実世界の学習でも同じであると感じたので今日はそれを言いたくてこの記事を書いた。(これを書いた時点で満足した。)
本を読んだり、セミナーに出て得られる気付きや学びというのはその人がもともと持っている知識に依存する。
セミナーに嫌々出席してぼーっと聴いているとこれって自分の所持する鞄の中を漁り、奥底に忘れ去られていた物を掘り起こす作業に過ぎないのではないか?と感じることがよくある。
気付くべくして気付くというのか、元からあったものを再認識するというのかそういった類いの行為であることが多いように感じられる。
知識量を増やすということは己の写輪眼を鍛えるということであり、そうすることでこの世界のあらゆる場面で出現するうちはの石碑からより多くの学びを得られるようになる。それってなんだかお得で面白いなと思った。
例えばプロ野球の同じ試合を観戦をするにしても全くのにわかである自分と野球に詳しい友人とでは見えている世界が全く異なるのであろう。
自分が認識できるのはせいぜい打った、取った程度の表面上の出来事に限られる。それだけでも十分楽しめるのだが、野球に詳しい友人が見れば選手やチームの情報がより観戦をおもしろいものにしているのだろう。
素人にもよりおもしろく観戦してもらえるようにこういった情報を分かりやすく臨場感たっぷりに伝えてくれる実況や解説って偉大なのかも知れない。
そして野球に詳しい人間は自分の中にその実況解説を完備しているのだろうな
今日のまとめは知識があると1つのイベントから色んな学びが得られて楽しいかもねってことで。まあそれだけ。
趣味と満足
今日は趣味について
趣味にも種類があって
消費活動を趣味とするか、創作活動を趣味とするかで性質が異なるのかな?と最近考えるようになりました。
消費タイプの趣味というのは
主にお金を払って人が作ったり用意した商品やサービスを買うことで満足を得るタイプのものです。
漫画、カラオケ、旅行、美味しい物を食べるなどなど。
創作タイプの趣味というのは
小説を書く、絵を描く、音楽を奏でる、日曜大工、料理みたいな自分で何かを作り出すことに楽しさを見出すタイプの物です。
私は今まで主に消費タイプの趣味を楽しんできました。
読書やゲームが好きなので。誰かが作った物語を読み、ゲームを攻略したくさんの楽しみを頂いてきました。
最近は自分で何かを作ってみたいという欲が出てきました。
消費タイプの趣味はインスタントに楽しみを受け取れます。しかしお金がかかることが多い。
消費活動には際限がなく1つの本を読み終わるとまた次が欲しくなる。
それはそれで悪くはないのですが、誰かが面白い物を作ってくれるのを待っているだけというのもなんだか面白くないような気がしてきてしまいました。
自分で作るというのはわくわくします。
これを作ってみたい、どうやったら作れるだろうか?
必要な材料、知識、技術はどんなだろう?
自分で調べて考えなくてはいけない。様々な困難が伴います。
だからこそ苦労して登った山頂からの景色が美しいように大きな満足をもたらしてくれるだろうと期待しているのです。
作りたい物はいくつか思いつきました。
先ずはできそうなものから調べてやってみようと思います。
制作過程は後々ここでまとめて公開しようかな。
コンビネーション記号「C」
数学Aの「場合の数」という単元で出てくるコンビネーション記号「C」
これは組み合わせの総数を調べるときに使う便利な記号だ。
例えば5人いるアイドルグループから2人の派生ユニットを作るときに考えられる組み合わせの総数は₅C₂=5×4/2×1=10通りみたな風に使う。
このコンビネーション記号には
「nCr=nCn-r」という性質がある。
異なるn個の中からr個選ぶ組み合わせの総数は異なるn個の中からn-r個選ぶ総数と同じであるという意味である。
こういうと何を言っているのかよく分からないと思うが表していることは単純で
rっていうのが選ばれた方だとしたらn-r個は選ばれなかった方。
文字だとイメージが付かないという人は具体的な数字で考えてみよう。
人気投票で5人のアイドルの中から2人だけ選べるとする。2人選んだ時点で残りの3人を選ばないことが確定する。
あなたが何かを選択した時点で残りの選択しなかったものも同時に選んでいるというわけだ。
私たちは日頃色々なことで選択を迫られて悩むことになる。
お店のメニュー、進路、自由時間の過ごし方。
それが重大であればあるほど存分に悩み、なかなか決めることができない。
そういうときは大抵魅力的なこれ!という選択肢がなくて困っているのではなくて、魅力的かどうかはさておき他の可能性を捨ててしまうということができなくて足踏みをしてしまうことの方が多いのかも知れない。
決断力というのは魅力的な正解択をピンポイントで見つけ選び抜く力というよりはむしろ、そこまで重要でない他の可能性をバッサリと捨て去れることができる力のことを指すのかも知れない。