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二次方程式の解と才能

二次方程式には2つの解があり、人には皆異なった才能がある。

 

しかしながら方程式を解き明かして得られた解が実数解であるとは限らなくて、それはもしかしたら虚数解であるかも知れない。

或いは求めた解が定義域の外側の数字かも知れない。

確かに解は理論上存在したとしてもそれが実態を持ち、有効か否かは分からないのである。

 

例えばもの凄くある競技の才能に恵まれていたとしても生まれる時代を間違えてその競技が全く流行っていないかそもそも存在していなかったとしたらその才能は定義域外の才能で埋もれていってしまうのだろう。

人をだます天才詐欺師とかそういう社会的に迎合されない才能は開花したとしても虚しいものだろう。

 

そんなくだらないことを考えながら数学の参考書を眺める。人生の虚数解を今日も生きている。

期待しない

基本的に自分は期待しない。人にもそれ以外にも。

 

飼っているペット、或いは赤ちゃんが気が利いた行動を取らないからといっていちいち腹を立てる人は少ないでしょう。

対象が気が利く生き物であるということを端から期待していないから。

だけれど相手が友人、恋人、配偶者、会社の上司その他諸々に変わったとき人は同じスタンスで接することができなくなる。

そして相手が自分の期待した反応を示さないときに不満を抱き腹を立てるのだ。

喜ぶと思ってプレゼントしたのに反応がイマイチ!とか

自分があげたくて渡してそれで満足すればいいのに相手に自分が思う望ましい反応まで期待してそれが裏切られたと勝手にわめくんだ。

ただ一緒にいるだけでOKとその存在を手放しに認めることをせずに自分を受け入れて欲しいと友人に期待してみたり。

期待値は低い方が基本的には楽だ。満足のハードルが低ければ日々満たされた思いで過ごせる。

 

対人関係だけでなくて何をするにしてもそうだ。

はじめから上手くいくことを期待して失敗を嘆くのではなく、上手くいったらラッキーくらいの気持ちでぶっぱなしておくのだ。

それくらいの気持ちでないと何もはじめられない。

 

何かを期待して人や現象に望ましい結果を強要するのはずうずうしいし迷惑だ。

よくなるといいな~とゆるく構えてなりゆきを見つめる。そういうスタンスを少しばかり取り入れてみれば、落ち込んだりイライラしたり、感情のリソースを無駄使いしなくて済むのにね。

 

 

AIに負けないってなんなんだ

AIに負けないって言うけど、機械に出来ないことに人間らしさを見出そうとしている時点で主導権を機械に握られてないか?

 

機械、数字、時間、人間が生み出したはずのものに人間が振り回されているのをみるとなんだか皮肉な生き物だなぁと思う。

努力によって得られるものは

努力によって得られるものは、なにも全てが素晴らしく褒め称えられるようなものではないなと最近思う。

 

例えばもの凄い肥満体型の人間はその体型を維持するために(意図しているかどうかはさておき)日々たくさんのカロリーを摂取している。

小食の私にはとてもマネできない壮絶な努力である。

 

学校の成績が悪い子どもたちも普通に授業を受けて普通に課題をこなすことなく、敢えて授業を聞かずに退屈な拘束時間を過ごし、先生に怒られるという痛みをわざわざ感じながら課題をサボり、徹底して学習から自らを遠のける絶え間ない努力の末に平均より低い学力を獲得しているのだ。

 

努力と聞くとより良くなるための行為が連想されるが、より悪く、悪く在り続けるという方向性の努力も確かに存在していて、常々弱者は強者でありたいと願いながらも知らず知らずのうちに弱者であるための絶え間ない努力を重ねてしまっているのである。

それが弱者の弱者たる所以なのだろう。

幸せになる方法ではなく幸せとは何かを考える

自分にとっての幸福とは何か?

人生の勝利条件は人それぞれだと思うけれど先ずはそれについて考えてみることが幸福への第一歩なのだと私は考える。(そもそも勝ち負けではないけれど)

 

自分にとっての幸福の定義とは

現状を振り返ったときに自分が納得して今を肯定することができるそんな自分でいられるという事

 

経済的、時間的、精神的、身体的に満たされて何不自由ないという事ではなく

自分の歩んできた人生を振り返りそれを良かったと認め、これからの歩みに自信が持てる自分でいられるという事が何よりも大切にしたいクリア条件なのである。

 

事実には色はない。善も悪もなくただ事実としてそこにあって、いつだって人間がそれを幸せだとか不幸だとか勝手に色を付けて騒ぎ立てている。

だからこれを満たせば絶対に幸福だ!なんて具体例を出すことに意味はなくて

そこに美しい色を付けられるウデマエが自分にあるかどうかが重要なのだ。

現在・過去・未来

 資本主義、民主主義の限界みたいなことが言われているのを見かけるけれど

これからどう変わっていくのだろう?もしかしたら自分が生きている間は限界だ終焉だと言いながらもずるずると今の仕組みを引きずっていくのかも知れない。

遠い未来に関しては確かめようがないのだから私たちにできることがあるとすれば

思いを馳せることくらいだろう。

世界を覆う大きな仕組みにできるだけ依存しないようにしてバランスを取っていくのがこれからの方針としては良さそうだと個人的には思っている。

完全に脱資本主義は難しいけれど消費への依存度を下げてささやかな生産で補う。

お金以外の資産を見直す。具体的な策はこれからできるところから試してみたい。ざっくりとした方向性が見えつつあるのが現時点での成果だ。

答え合わせのしようがない未来について考えるうちに過去に起こった大きな変化について興味を持つようになった。

人類がこれまでに体験してきた旧体制の崩壊を見てみたいと思うようになった。

100年前、200年前に自分と同じように未来に思いを馳せた人間の予想や考察、その答え合わせが100年後、200年後を生きている私にはできる。

そして100年後、200年後の誰かが今を振り返ってまた答え合わせをする。

未来に思いを馳せ、過去を振り返り、今を見つめて生きていく。

そうやって繋がっていく歴史。そしてその果てを見てみたい。

1日1食生活

現在私は1日1食の生活をしている。

 

高校時代にお弁当を持って行くことをやめたのがきっかけだ。

元々胃腸が弱く胃腸薬を常備していた私はふと思いつく。

「食べなければおなか痛くならないんじゃね?」

試しにお昼ご飯を抜いてみた結果、おなかが空いて困ることもなく案外お昼ご飯って要らないんだなということに気が付いた。

午後の授業も眠くならないしお昼休みも長くなるしちょっとした革命だった。

 

大学に進学してからは朝ご飯も抜くようになった。

早起きができない私は午前中に予定がない日は昼まで寝ていることが多かった。

出発のギリギリまで寝ていたいのでいちいち朝食に貴重な朝の時間を使いたくなかった。

 

そうして昼、朝に食事をするという文化を捨てて夕食のみの食生活を続けている。

これはなかなか分かる人はいないと思うけれど、食事という行為は疲れる。

3回は自分にとっては多すぎた。

自分に必要な分だけを摂取する。無駄を省いたおかげで食費も時間も浮いてお得だ。

 

高校までの十数年間は私も1日3食の文化圏にいた。

生まれた時からみんなそうしていて疑うこともなく自分もそれに従っていた。

だけど多くの人に合っている方法が必ずしも自分に適しているとは限らないし、本当に自分にとって必要で大切なものは何か?どこかで立ち止まって考えてみることは大切だと思う。